私が22歳の時に母は胃がんの診断を受けました。
その当時は、知識も乏しく「がん」と聞くと、あと数年でお別れしなければならないと
勝手に思っていました。
その当時母は板橋区の成増が丘小学校の教員をしていて、
高学年を受け持っていたため多忙を極め、自宅に帰ってくるのは9時が当たり前。
父も忙しく、金属をつなぎ合わせるオイルシールの営業をしていました。
大手の自動車メーカーにお付き合いをしている関係で、全国の工場へ飛び回る生活で、
一家が揃うことなどありませんでした。
私もスキーの選手として夏の期間は資金稼ぎとトレーニングに明け暮れているときでした。
母が神妙な顔で、話があると切り出しました。
手術をしなければならない。
そのため学校を長期休む、そして家事一切ができなくなるから、
家のことは頼んだからね。
深夜父が帰宅し、もう一度話し合いがありました。
何を話したのか思い出せませんが、1週間後には入院し、10日後には手術を受けるということでした。
母は50歳だったと思います。
今までも胃が痛いと言っていたことを思い出し、胃薬も何種類も飲んでいました。
その年の冬にスキーの大会でカナダへ行く前だったので印象に残っています。
「優司はやりたいことをやりなさい。
今やらなければ後悔するからね。」
という言葉を聞きました。
そして、手術当日
母が入院している新宿の東京女子医大病院へ、駅からバスに乗って病室に行くと
父は先に来ていて、「頑張って来いよ」と声をかけていました。
4時間に及ぶ手術を終えると、集中治療室へ移動したという知らせを聞いて
父とビニールの防菌シールド越しに母を見ました。
管が鼻につながれ、心電図の音が響いていたことが生きている証でした。
声をかけるとうっすら目を開いて、こちらを見た気がしました。
それまで母の寝顔などまじまじ見ることなどなかったので、
神妙な気持ちで声をかけることもできないものです。
医師から胃部は3か所のがんが認められ、全適したということでした。
「抗がん剤治療を受けることをお勧めします。」と言われたようで、
父が承諾したようです。
しかし、抗がん剤治療が始まると髪の毛は抜け、嘔吐の繰り返し。
瞬く間にやせ細り、毎日のお見舞いに、恐怖が先に立っていきたくないと思い始めた矢先でした。
「アイスクリームが食べたい」というので、一階の売店でバニラアイスを買って戻り、
少し溶けたころ木のヘラのスプーンで口へ持ってゆくと、
「このアイス にがい」と一言。
それきり食べなくなりました。
そのことを父に伝えると、抗がん剤治療をやめようと
こんなに細くなって、味覚も変わってきた。
最後はおいしく食べさせて、元気を取り戻させたいと意見は一致しました。
医師に伝えると再発の危険や、転移が疑われるので、最後まで抗がん剤は投与したらどうかと
いわれましたが、もしそうであってもその時の運命に任せたいということで、
抗がん剤を中止し、免疫治療のみに切り替えてもらい、退院の日を迎えました。
やせ細っているので、車への移動は辛そうです。
その時に父の友人が奥様を丸山ワクチンで延命しているという話が伝わってきました。
藁にも縋るとはこのことです。
日本医大の説明会に出席し、自宅近くの主治医に送り届ける手配をしました。
20アンプル A液 B液を1日置きに交互に静脈注射する方法です。
これが功を奏したのか現在93歳
みずほ台の特養ホームにお世話になっています。
ちょっと物忘れはしてきましたが、いたって元気にお仲間と楽しく歌っています。
丸山ワクチンが母には効果があったようです。
術後40年も生きて、
「孫やひ孫にあって楽しい人生だと」言っていました。